の中に物有り。恍たり惚たり、其の中に象(しょう)有り。窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り。其の精甚(はなは)だ真、其の中に信(しん)有り。
今より古(いにし)えに及ぶまで、その名は去らず。以(もつ)て衆甫(しゅうほ)を閲(す)(統)ぶ。吾れ何を以て衆甫の然(しか)るを知るや。此れを以てなり。
孔徳之容(○)、惟道是従(○)。道之為物(△)、惟恍惟惚(△)。恍(*)兮惚(△)兮、其中有物(△)。惚兮恍(○)兮、其中有象(○)。窈兮冥(△)兮、其中有精(△)。其精甚真(○)、其中有信(○)。
自(*)今及古(△)、其名不去(△)。以閲衆甫(△)。吾何以知衆甫之然(*)哉、以此。
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「道」を説く章として、とくに第十四章(五二ページ)と関係が深い。冥想(めいそう)的な深い思念のなかで、おぼろげななかから確かなあるものをさぐり当てるという実践がここにある。それは一種の神秘的な体験といってよいかもしれない。一面にもやのたちこめた世界のなかに何かが存在する、そしてぼんやりした形象(かたち)が浮き出てくる。やがてその奥から生き生きとした精気が動き出す。純粋で確かな手ごたえ、これこそが「道」だ。「道」はそうした忘我の陶酔(とうすい)状態ではじめて体認される。その体認、体得(たいとく)が「徳」である。
●「孔徳」は大きな徳。徳は得と同じで、わが身に得られて身についたもの。能力であり、そのあらわれとしての恩恵。効果の意味にもなる。老子流の徳は儒教の徳と違って、根源の
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