器となり、聖人はこれを用いて官の長と為(な)す」とある。
帛書(はくしょ)甲.乙本とも、この章の前に現行テクストの第八十章と第八十一章との二章が入っている。それに従えば、この章は第六十九章となって、以下にうけつがれることとなるが、帛書のこの順序よりも良いともない思えないので、現行のままに従った。
68 善く士たる者は(不争(ふそう)の兵法)
りっぱな武士というものはたけだけしくはない。すぐれた戦士は怒りをみせない。うまく敵に勝つものは敵と争わない。じょうずに人を使うものは人にへりくだっている。こういうのを「争わない徳」といい、こういうのを「人の力を利用する」といい、こういうのを「天とならぶ」ともいって、古くからの法則である。
善(よ)く士たる者は武(ぶ)ならず。善く戦う者は怒(いか)らず。善く敵に勝つ者は与にせず。善く人を用うる者はこれが下(した)と為(な)る。是(こ)れを不争(ふそう)の徳(とく)と謂(い)い、是れを人の力を用うと謂い、是れを天に配(はい)すと謂う。古(いにし)えの極(きょく)なり。
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▵ 善為士者不武。善戦者不怒。善勝敵者不与。善用人者は為之下。是謂不争之徳、是
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謂用人之力、是謂配天。古之極。
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「百戦百勝つは、善の善なるものにあらず」と『孫子(そんし)』は喝破(かっぱ)する。この有名な兵法者は「戦わずして敵兵を屈服させるのを、善の善なるもの」とするのである。それは『老子』のいう「不争の徳」と通じるものがあるだろう。「不争」は、水の徳としてのべられた第八章のほか、無為(むい).柔弱(じゅうじゃく)と関係して第二十三章(旧二十二章)そのほかでもたびたびみえているが、ここでは、それこそ闘争の場と考えられるはずの軍事に関して強調されている。これはやはり、戦略ないしは戦術的な原則をのべた一つの兵法だといってよい。過度の武勇をあらわすな、怒りの情にまかせるな、露骨(ろこつ)な敵対をするな。うまく人びとの能力を利用せよ。「不争の徳」を中心にすえることによって、それが可能である。そして、それこそが天道の自然にかなうことであり、古来の正しい法則だという。
◉「与(とも)にせず」は、文字どおりには関係をもたないということ。ここでは、敵に対して敵としての対立した関係をもたないことで、つまり、正面きった敵対を避けるのが最善の勝利をおさめるコツだというのである。最後の「是(こ)れを天に配すと...」より以下は、やや読みにくくて異説がある。一句に読んで「天古の極に配す」、「古」の字除いて「天の極に配す」などとも読まれるが、二句に分けて、「古(いにし)えの極」を一句とするのがよいであろう。「極」は法則の意味。「配天」は『詩経(しきょう)』以来の古くからあることはで、『荘子(そうじ)』にもみえる。「配」は
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