らわれる。自分のしたことを鼻にかけて自慢したりはしない、だから成功が得られる。自分の才能を誇って尊大にかまえたりはしない、だからいつまでも長つづきができる。
そもそも自分を立てて人と争うということをしない。だから、世界じゅうにかれと争うことのできるものはいないのだ。古人のいわゆる「曲がりくねった役たたずでおれば、身を全うできる。」というのは、いかにもでたらめではない。まことに、それでこそ身を全うして完全なままで、生まれ出てきた本源にその身を返せるのだ。
曲なれば則ち全し、枉がれば則ち直し、窪めば則ち盈つ。敝るれば則ち新たなり。少なければ則ち得られ、多ければ則ち惑う。是を以て聖人は一を抱きて天下の式と為る。
自ら見わさず、故に明らか、自ら是とせず、故に彰わる。自ら伐らず、故に功有り、自ら矜らず、故に長し。
夫れ惟だ争わず、故に天下も能くこれと争う莫し。古えの謂わゆる曲なれば則ち全しとは、豈に虚言ならんや。誠に全くしてこれを帰す。
曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、為天下式。
不自見故明、不自是故彰。不自伐故有功、不自矜故長。
夫惟不争、故天下莫能与之争。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而帰之。
人の上に出て自分を売りこもうとする前のことばを受けて、ここでは逆に、人にへりくだって万事をひかえめにして、不争に徹することによって、かえって不敗の勝利者となる聖人のことが語られる。「不争の德」はすでに第八章にもみえた。柔弱を守って剛強をさけることと結びついた、『老子』の主要な処世態度である。負けて勝つという逆転がそこに考えられている。みごとな逆説の論理で、汚辱のなかにあまんじて身を沈めることが、実は窮極の勝利に連なるというのだが、しかし、みずから汚辱のなかにとびむことは、とてもむつかしい、そして勇気のいることにちがいない。
凡人はどうしても無けなしの才能をひけらかしたがる。消極的な弱虫にできることではなかろう。「一を抱く聖人」を模範としなければならないわけである。
「曲なれば則ち全し」は、拳曲った不材の木が天年を全うするという『荘子』人間世篇の説話が、よくその意味をあらわしている。真っ直ぐの良い木は早く伐られてしまう。「出る釘はうたれる」の反対で、これを曲全の道という。下文で「古えの謂わゆる」といわれていることから、この句が古語であることがわかる。ただ、このあとの三句も句法·句意とも緊密な関係にあるから、四句を合わせて古語と考えた。「少なければ」と「多ければ」の二句はやや違っているから、曲全は四句の古語を総括したことばであろう。「一を抱く」は第十章でもいわれていた。「一」は「道」をさしているが、上文の「少なければ則ち得られ」とあい応じている。「式」は法則の意味。「自ら見わさず」以下は聖人のありかたで、前の章の裹がえし。「虚言」は空言の意味で、根拠のないでたらめなことば。
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