吾不知誰之子。象帝之先。
「道」についての内容的な解説である。本来、説き明かすことのできないものであるからには、それがあいまいな詩的なことばになるのは、むしろ自然である、「道」はからっっぽで、からっぽだからこそその効用(はたらき)が無尽(むじん)だとういのは、次の第五章で橐籥(ふいご)の例によって中が空虚(から)P26だから幾らでも出てくるというのと同じである。第四十五章では「大盈(たいえい)(ほんとうの充満)は、沖(からつぼ)のようで、その用(はたら)きは尽きない」ともある。「道」のからっぽは、実は「大盈」というべきものである。そして、それは奥深い万物の根源であり、また中心であって、おぼろげな存在のすがたをとりながら、この世のそもそもの肇(はじ)まりの、さらにまたその前からあったもののようだ、という。
「沖」の字を空虚(から)の意味に読むのは、「盅」の借字(しゃくじ)としてである。「盅」となっているテクストもある。「或」を「又」と読むのも借字である。「又」となっているテクストが多く、帛書(はくしょ)は「有」となっているが、この三字は通用する。下文の「存する或(あ)る」の「或」のほうは、敦煌(とんこう)本など唐代では「常」の字になっている。それによると、「常に存す(一定不変の存在があるようだ)」となる。それでも意味は通るが、第二十一章の「恍(こう)たり惚(こつ)たり、其(そ)の中荷物あり』(七九ページ)というおぼろげなありようが、ここでもよりふさわしいものに思える。ふつうの存在ではないが、何かがあるように見える、ということである。
「其(そ)の鋭を挫(くじ)き」より以下の四句は、「和光同塵(わこうどうじん)」という諺ともなって有名で、第五十六章にも重出している。「道」のはたらきとして、鋭いけばけばしさをおさえて平凡なおのずからなありかたに沿(そ)うことである。ただ、ここでは、前後の連続は必ずしもよくない。この四句を除いて考えると、上の「底知らずの淵のように(淵として)」と下の「たたえた水のように(湛(たん)として)」とが対応して、連続もよい。四句は後からのまぎれこみとみられる。
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