ワンマン宰相
ワンマン宰相の異名をとった吉田茂は、人を食ったような逸話をいくつも残している。若き外交官時代、旧知の寺内正毅(まさたけ)首相に「秘書官になれ」と言われ、「総理大臣は務まると思いますが、総理大臣秘書官は務まりません」と答えて「出世」を棒に振った。
棒に振る:それまで積み重ねてきたものを無にしてしまう。「地位を―?る」
人を食う:人を人とも思わない、ずうずうしい態度や言動をする。「何とも―?った話だ」
棒に振?る:それまで積み重ねてきたものを無にしてしまう。「地位を―?る」
人称独裁宰相的吉田茂,至今仍有几个目中无人的逸闻。据说他的旧知寺内正毅首相曾邀请他出任"秘书长",但他回应说"我希望可以担任总理大臣,不希望出任总理大臣的秘书长",而白白地葬送了自己的前程。
戦後は、戦犯容疑者に指定されて自殺した近衛文麿(ふみまろ)の家を借りて、来客に「ここに寝ていたら、近衛が出てくるだろうと思ってね」と平然と語っている。その破天荒さは時に、したたかな実利主義とも結びついた。
したたか:
1.粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しないさま。しぶといさま。「世の中を―に生きる」「―な相手」
2.強く、しっかりしているさま。「―な後見役」「―な造りの家」
3.強く勇猛であるさま。
战后,他租借了因被认定为战犯嫌疑而自杀的近卫文麿的房屋。并淡然地对来客说"觉得在这里就寝,或许会遇到近卫呢"。这种史无前例的事情,有时让人觉得他是与强硬的实利主义结合在一起的。
再軍備を迫る米国にしぶとく抵抗した吉田の軽武装経済中心路線が、戦後日本の繁栄の基礎を作ったことは、よく知られている。「そうした商人的政治観は、必ずしも彼の本質ではなかった」とみるのは、新しい伝記「吉田茂--尊皇の政治家」(岩波新書)を執筆した原彬久(よしひさ)?東京国際大教授だ。
しぶとい:強情で臆するところがない。また、困難にあってもへこたれずねばり強い。
众所周知,为了对抗美国强迫日本进行军备调整,而顽强抵抗的吉田所采取的轻武装经济中心的路线,为战后日本的繁荣奠定了基础。但"他这种商人的政治观,也未必就是他的本质。"这种看法,在东京国际大教授原彬久所执笔的新传记《吉田茂--尊皇の政治家》(岩波新书出版社)中被提及。
原さんに よれば、吉田を動かした原動力は、皇室への尊敬が社会秩序の基礎だという信念だった。少年時代の国粋主義教育に加えて、夫人を通して明治維新の元勲大久保利通(としみち)に連なる系譜は、彼の尊皇の念を一層強めた。
原彬久先生谈到,给吉田造成的原动力是"他认为对皇室的尊敬是社会次序基础"这种信念。再加上他少年时代所接受的国粹主义教育,再加上其夫人与明治维新的元勋大久保利通为同一宗族这层关系,更加加深了他的尊皇的理念。
「占領軍に協力したのも、マッカーサー元帥が日本の統治のために皇室存続を決断したからだ」と原さん。さらに吉田は、戦争責任から一時は退位すべきか迷っていた昭和天皇を思いとどまらせた。
思い止まる:しようと思っていたことをやめる。考えたすえ、やめにする。思いとまる。「脱会を―?る」
原彬久先生还谈到"他会协助占领军,也是因为麦克阿瑟元帅为了统治日本已经决定让皇室得以继续存在。"而且吉田还让是否该因战争责任暂时退位这个问题犹豫不决的天皇消除了顾虑。
天皇の権威を守るためだっただろうが、「天皇が自らの戦争責任を形にできなかった歴史的含蓄は重い」と原さんは言う。今日まで残る日本の過去の問題を考えると、吉田が落とした影もまた大きかった。
虽说是为了维护天皇的权威,但原彬久先生认为"天皇自身无法在形式上承担起战争责任,这在历史上的蕴意是沉重的"。只要一考虑道现今日本依然存在的过去的这些问题,就觉得吉田他所造成的影响是如此巨大。
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