名づけようのない、名をこえた「道」の素朴なありようを持ち出して、被治者のすべてを無欲の状態にみちびくのだという。「道」のありかたを模範とする政治論である。
「万物」ここでは統治の対象としていわれているから、もちろん人民をふくむ世界じゅうの物である。「無名の僕(ぼく)」が「道」をさしていることは、第三十二章をみれば明らかである。「道は常に無名」とある。馬王堆帛書(まおうたいはくしょ)では、この章の初めの二句が「道は恒(つね)に無名」という一句になっていて、もしそうなら第三十二章と同じになる。全体として、この章と第三十二章とは関係が深い。「無為にして為さざるは無し」という句は第四十八章にもあるが、そこでは「道」を修(おさ)めた人のゆきつく理想的なありかたとしていわれている。また、ここと関係の深い「我れ無為にして民自(おのずか)ら化す」ということばは、第五十七章に聖人の言としてみえている(一七七ぺージ)。
以上の第三十七章までが、「老子」上下二篇で、このあとの第三十八章からが下篇である。馬王堆帛書では、甲本。乙本ともに上下がいれかわっているから、この第三十七章が全体の最後となり、次の第三十八章が「老子」全篇の最初の章となっている。そのほうが古い形だと主張する中国の学者もあったが、十分な理由は示されていない。もちろん、帛書は現存最古のテクストであるから、その可能性がないわけではないが、ここでは従来のままとしておく。
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