- 讲师:刘萍萍 / 谢楠
- 课时:160h
- 价格 4580 元
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聖人の玄徳(げんとく)として、常人に及びがたい境地を詩的に述べたものである。中心は最初の「抱一」にあるだろう。王弼(おうひつ)は「一とは人の真なり」というが、「一」は第二十三章(旧二十二章)や第三十九章にもみえていて、要するに「道」の別名と考えてよい。「道」と一体になって離れることのない境地、それが、嬰児(えいじ)とか、雌(し)とか、疵(きず)がないとか、知られないとか、
しわざがないとかいうことによって、具体的に言いかえられているのだ。
ここにはまた、神秘的な空気もただよっている。迷いのなかにあるこの肉体を静めるというのは、あるいは精気を体内に集中するというのは、いったいどうして得られるのか。それは、おそらく、仙人の修行を思わせるような静坐(せいざ)法とか呼吸法と結びついたものであったのだろう。心の鏡を洗い清めるとか、天門開闔(かいこう)というのも、その背景にある神秘的な宗教体験が想われる。ただ、『老子』はその神秘のなかにひたっているのではない。みずからの「道」を説くために、むしろそれを利用しているのである。「道」を説くことばがいかに暖昧糢糊(あいまいもこ)としていても、それは本来表現しえないものをあらわすための苦心の表現であった。そこで、この章にはまた難解なことばが多い。
◎「営魄(えいはく)を載(やす)んじ」の「営」は熒(けい)と通用して惑(まど)いの意味。「魄」は人の身体にかかわる精気、魂が精神にかかわるたましいであるのと対照する。「載」は安んずる意味。「魄」は魂に比べて粗雑(そざつ)とされ、したがって惑いのなかにある。それを安らかに静めること。ただし、「営魄」を魂魄とか霊魂と解するほか種々の異説があり、「載」も処(お)るとか乗せるとも読まれる。◎「玄覧」もわかりにくいことばで、王弼(おうひつ)によれば汚(けが)れを洗い去って鋭い洞察をすること(滌除(てきじょ)して玄覧(げんらん)す)となるが、河上公(かじょうこう)では心を洗い清めることだといって、「玄覧」を心とみている。「覧」は鑑(かがみ)の借字。『淮南子』(えなんじ)修務(しゆうむ)篇でも玄鑑(げんらん)を心と関係づけて説いており、帛書(はくしょ)乙本では「監」とあって鑑と同字であるから、河上公の解釈に従うのがよい。◎「愛民治国」の
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