居(きよ)には地を善しとし、心には淵なるを善しとし、与(まじわり)には仁を善しとし、言には信を善しとし、正(政)には治を善しとし、事には能(のう)を善しとし、動には時を善しとす。
夫(そ)れ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)め無し。
上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。
わが身を退けて人の後からついていけといった前の章をうけて、ここでは人と争うなという。争いは、きあるいは人間にとって避けられないことかもしれない。人類の永い歴史が、そして現代の社会に生きるわれわれのありようが、それを示している。しかし、そうだからこそ、『老子』のいう「不争の徳」(第六十六章)は貴重である。人間のほんとうの幸福を追求するために、孔子の仁やキリストの愛や釈迦(しやか)の慈悲と同様に、貴重である。
◎「上善は水の若(ごと)し」で、水の性質を模範とすることばは、『老子』のなかでほかにもみえる。水が低いほうに流れて従順柔弱(じゅうじゃく)で争わないところに人生の模範をとるのであって、『老
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子』の処世(しょせい)哲学が「濡弱謙下」(じゅじゃくけんか)などと評される(『荘子』(そうじ)天下篇)のと合致する。『老子』の特色がそこにみられるであろう。水を理想とするのは『老子』だけのことではない。『荀子』(じゅんし)宥坐(ゆうざ)篇では水の徳として儒家(じゅか)的な徳目をかかげ、『管子』(かんし)水地篇では「万物の本原、諸生(生成)の宗室」としてたたえているが、道徳的なこじつけであったり、生命の源としたりであって、『老子』の水のとらえかたとは違っている。◎「住居としては土地の上が善く」より以下の七句は、前後との関連が必ずしもよくない。上文の「上善」(じょうぜん)を解説した古い注の文がまぎれこんだのであろうといわれるほか、順序を改めようとする試案もある。この一段がないと、前後の文はうまく密着するが、今は連続的にみて、人の処世のありかたとして水を模範とした「不争」の善さを述べたものとしておく。
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