谷間の神は奥深いところで滾々と泉を湧き起こしていて、永遠の生命で死に絶えることがない。それを玄牝(げんげん)―神秘な雌のはたらきとよぶのだ。
神秘な雌が物を生み出すその陰門(でぐち)、それをこそ天地もそこからで出てくる天地の根源とよぶのだ。はっきりしないおぼろげなところに何かが有るようで、そのはたらきは尽きはてることがない。
谷神は死せず、是れを玄牝(げんげん)という。
玄牝の門、是れを天地の根という。綿綿(めんめん)として存するが若く(ごと)、それを用いて勤(尽)きず。
谷神不死、是謂玄牝。
玄牝之門、是謂天地之根。綿綿若存、用之不勤。
万物生成の無限のはたらきを、女性の生殖の神秘になぞらえて詩的な押韻文であらわした章である。
p32
「道」ということばはないけれども、「道」のはたらきと同じものを語っていることは、いうまでもない。
「谷神」の「谷」を「穀」の借字(しゃくじ)とみて、生成長養の神とする説もあるが、文字どおりに谷の神とするのが勝(まさ)る。『老子』中では、たとえば「上徳は谷のごとし」(第四十章<旧四十一章>)というように、谷をものごと根源あるいは始源として、理想的にあらわす例が少なくないからである。「玄牝」は、「玄」が第一章で「玄の又た玄」とあったのと同義、「牝」は牡に対する雌として、女性であり、母性である。それが生殖の力をもつ豊饒の神として、天地のの根源ともなるのは、自然である。「綿綿(めんめん)」を「はっきりしないおぼろげな」と訳したのは、やや特殊である。「民民(みんみん)」の借字であって、「冥冥(めいめい)」の意味だという高亨(こうこう)の説に従ったのである。文字どおりの意味では連続のありさま。永遠につづいていて何かが存在しているようだ。」となる。「勤きず―尽きはてることがない」と読んだ最後のことばも、王弼(おうひつ)の注に従って「労(つ)れず」と読むのが多いが、『淮南子』の注に従って「勤」を「尽」の意味に見るがよい。これも高亨の説による。小川環樹博士も同じ。
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