われわれをその深みへと誘うのである。しかも、その世界はこの現実世界と別なのではないというところに、『老子』の真骨頂(しんこつちょう)はあった。
◎「道」はもと道路の意味・そこから道理・方法などの意味が生まれ、孔子(こうし)を教祖とする儒家(じゅんか)では、仁義などの道徳が入のよるべき道として掲げられた。「道の道とすべきは、常の道に非ず」というのは、そうした儒家の提示する道を排斥(はいせき)したことばである。『老子』のいう「常の道」とは、単なる人間世界の約束ごとではなくて、宇宙自然をもあわせつらぬく唯一(ゆいいつ)絶対の根源的な道であって、それは「名」によってはあらわすことのできない窮極の原理であった。「道」についての説明は、このほか、第四章、第十四章、第二十一章、第二十五章十七章などにも見えている(解説の説明をも参照)。◎「名」とは、名称、言語、概念の意味。それは必ずある実体に対してつけられて、一つの約東ごととして世間で通用することになるが、物の名称は本来どのようにもつけられるわけであるから、「名」は実に対して第二義的なものである・『荘子』にも「名は実の賓(ひん)(客)なり」とある。『老子』では「無名」や「不言」が貴(とうと)ばれ、
ことばや慨念に対tる不信の念は強い・「遭」のあとにつづいて、なぜ「名」が出てくるのか・もちろん、名づけようのない「道」の性格との関連で出てくるのだが、ここに以また名目にとらわれて、ことさらに「名」を立てようとする儒家や法家などに対ずる批判がこめられている・そして『老子』のいう「常の名」とは、「道」の不可思議なありかたにねったおのずからなる「名」として、、つまりは無名の名(名づけることのない
点击加载更多评论>>