- 讲师:刘萍萍 / 谢楠
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あわがだいみょうじんもとつふみ粟鹿大明神元記
天皇や命により、但馬国の鎮守、阿米美佐利命(あめみきりノみこと)と粟鹿大明神の由来を詳しく調べて申し上けます。
大日神(おほひるノかみ) (天照大神)
次に素佐乃乎命(すさのをノみこと) (須佐之男命)
↓
久斯伊那多比祢(くしいなだひめ)と結婚して生まれた
↓ 大山都美の娘、木花知利比賣(このはなちりひめ)と結婚して生まれた。
↓ 淤迦美(おかみ)の娘、日河比賣(ひかわひめ)と結婚して生まれた
↓ 阿麻乃都刀閇乃知尼(あめのつとへのちに)と結婚して生まれた。
↓ 布努都祢美(ふどつつみ)の娘、布弓祢美と結婚して生まれた
↓ 佐志久斯布刀比賣(さしくふとひめ)の娘、佐志久斯和可比賣(さしくわかひめ)と結婚して生まれた
↓
この大国主命は、二人の子供の親になっているにもかかわらす、(妻に)その姿を見せていなかった。夜が明けるとともに去り、昼には来たことがなかった。そのため、(妻の)玉櫛姫(たまくしひめ)は心中疑いをいだくようになり、(大国主命の)衣に糸をつけ、明るくなってその糸を追い求めて行くと、その糸は茅(ちぬ)渟の陶村(すえむら)を経て真っ直に大倭の御諸山(みもろやま=三輪山)を指していた。これで玉櫛姫は(夫が)大国主神であることを知った。そして、その糸は元のところにただ三輪残っていた。そこから、意富美和君(おほみわのきみ)の姓(かばね)と言うになった。
→ 児、阿米祢佐利(あめみきり)命、粟鹿大社に座す。
児、溝杭矢瀬姫(みぞくひノやせひめノ)たたら五十鈴姫(いすずひめ)命
↓ → 五十鈴依姫(いすずよりひめ)命
↓ 神沼河耳(綏靖)天皇に嫁ぎ、磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ=安寧)天皇を生む。
→ 児、久斯比賀多(くしひがた)命大神朝臣(おほみわノあそん)の祖先、神武天皇の御世から綏靖天皇の御世に至るまで内臣として国政を担当した。墓は、和泉国の知努乎曽(ちぬこそ)村に在る。
児、阿麻能比賀大(あまのひがた)命
→ 妹、渟中底仲姫(ぬなそこノなかつひめ)命 ↓
又、大和氏文(やまとうじふみ)付、名は大祁知遅若(たけちじわか)命と在る。 ↓
↓ 意富多幣良姫(おほたへらひめ)命と結婚して生まれた
→ 児、櫛(くし)ミカ戸忍勝速(とおしかつはやひ)日命
又、大和氏文、名を大祁弥賀乃保(たけみかのほ)命と在る。 ↓
亦の名は武(たけ)みか曽々利(そそり)命と云う。母は日向賀牟度美良姫(ひむかノかむとみらひめ)命と曰う。
↓ 亦の名は武(たけ)みか析(おり)命、母は出雲の臣の先祖、沙麻奈姫(さまなひめ)命と曰う。
↓
児、刀余美氣主(とよみけぬし)命
↓ 亦の名を飯片隅(いひかたすみ)命と云う。母は伊勢の幡主の娘、賀具侶姫(かぐうひめ)命と曰う。
↓ 母は木(紀伊)国、奈具佐姫(なぐさひめ)命の大神(おおみわ)の朝臣等の祖先である。
母は賀毛都美良姫(かもつみらひめ)命と曰う。大神(おほみわ)朝臣(あそん)等の祖先である。
↓ → 大鴨積(おほかもつみ)命 これ、賀茂朝臣(かもノあそん)等の祖先。
↓ → 大多彦(たたひこ)命→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
美作国大庭郡神直(みわノあたい)、石見国大市郡神直、的大神直、倭三川部、吉備国品治部、葦浦君(あしうらノきみ)等の先祖
意富弥希毛知(おほみけもち)命 神人部の祖、淡路国三原郡幡多神人部川成の祖先。 ↓
↓ → 児、大彦速(おほひこはや)命
母は穂積朝臣(ほづみノあそん)らの祖先、内醜男(うちしこを)命の娘玉降姫(たまふりひめ)命と曰う。
大主(おほぬし)命 ↓
↓
これ、纏向日代(まきむくのひしろ)宮御宇大帯彦忍代別(おほたらしひこおしろわけ=景行)天皇が笠志に行幸される時に神事を司った。これ的大神直ら、また倭御川部らの先祖。 ↓
↓ 母は甲斐国造らの先祖、狭積穂彦(さつみほひこ)命の娘、角姫(つのひめ)命と曰う。
↓↓ 母は的大神直(まとおほみわノあたい)らの先祖、水練命の娘雲別姫(くもわけひめ)と曰う。祭主。
児、神部直速日(みわべノあたいノはやひ
↓ 母は倭三川君(やまとノみかわノきみ)らの先祖、角大草(つのおほくさ)命の娘浦稚姫(うらわかひめ)命と曰う。
神部直高日(たかひ) ↓
↓ 母は物部連小事(もののべノむらじこごと)の娘、意富安姫(おほやすひめ)命と曰う。
神部直弟(おと) ↓
母は姨(おば)同物部連小事(もののべノむらじこごと)の娘、小安姫(こやすひめ)命と曰う、上の人、粟鹿大神の祭主を司る。 ↓
→ 神部直乙女(おとめ) ↓
児、神部直奈久(なく)
神部直御影(みかげ)の娘、酒女(さかめ)を娶とる。上の人、粟鹿大神の祭主を司る。 ↓
児、神部直宿奈(すくな↓
↓
→ 神部直赤麻呂(あかまろ) ↓
忌酒女祝 二十人、 ↓
↓
神部直赤丸(あかまる)の娘、久良子(くろし)を娶とる。上の人、粟鹿大神の祭主を司る。 ↓
神部直袁麻呂(おまろ) ↓
忌部祝 三十人、
↓
↓ → 神部直宿奈(すくな)の娘、尓保布女(にほふめ)を娶とる。上の人、粟鹿大神の祭主を司る。 ↓
神部直袁志(おし) ↓ 神部直荒鹿(あらか) ↓ 児、神部直都牟自(つむじ 神部直袁志(おし)の娘、殿女を娶とる。上の人、粟鹿大神の祭主を司る。 ↓ 上の人、難波長柄豊前宮(ながらとよさきのみや)御宇天萬豊日(あめよろずとよひ=孝徳)天皇の時に、天下の郡領ならぴに国造(くにのみやつこ)・県(あがた)領を定められた。この時、朝来郡の国造となり、大九位に叙せられた。
忌部祝 三十人
忌郎祝 三十人、
忌酒女祝 四十人、
雑役等、
上の人、後岡本朝庭(のちのおかもとのみかど)御宇天財重日足姫(あめとよたからいかしひめ=斉明)天皇の時、但馬の国の人々を率い新羅に遠征した。帰ってきて、(斉明天皇の)朝廷から始めて朝来郡の大領司に任じられ、任を全うした。また、近江大津宮(おふみおおつのみや)御宇天命開別(あめみことひらかすわけ=天智)天皇の時、庚午年籍作成のための調査を命じられ、国政に協力した。国造・縣領や領内の人々の様子や由来を詳しく調べ、朝廷に報告した。その庚午年籍によると粟鹿郷の上戸主は神部直根マロ、年は三〇歳、神戸里を分割し、九条三里田、四里田のみ、十条四里田、五里田、六里田、十一条二里田のみ、野山林のみとした。
忌酒女祝 四十人
雑役等
我が大明神が天より降ってから十一代の後、根マロが氏を引き継ぎ、神事を行っている。また、武略にもはげんだ。そもそも、新羅はわが朝廷に反抗することが多く何回も海を渡って兵を率い合戦してきた。神代当初の人皇以後、この兵難は絶えること無かった。今後においても、いつその災難が起こるか分からない。ちょうど根マロが三十歳の時、朝廷よりの命で遠い異国の将と対した。命も顧みず戦い、勝つこと限りなかった。遂に敵王の軍を討ち取った。多くの助けをかり、寒さを忍び苦しさを忘れて戦った。敵の舟が急いで逃げていったのは大王の徳である。矢筈が敵に当ったのは神のおかげである。この功績によって、将軍の称号を賜った。宮城の貴いことをかたじけなく思い、今子孫に勲功の難儀を伝える。昔、国を守り世を平定し仇を討ち恨みを除いた。これも全てひとえにわが大明神のおかけである。根マロももうすでに年老い、今は七十歳である。わが系譜は、以上のようなものである。後世に功績と名を伝えたい。神に感謝したい。わが氏を永遠に継ぐため、今ここに神部のことを詳しく載せた。海底の石は鉄ではなく鈎にならない。太陽は玉ではなく把えられない。越の鳥は必す南の枝に巣し、胡の馬は北風にいななく。(このように自然の摂理は変えることが出来ない〉。人の力を以ってしても不可能である。況んや、わが氏の系譜を変えることは出来ない。神事を行い、氏の礼節を守り百王の豊年を祭りなさい。後世の者はこの心をもってしなさい。神代からの由来を次々に実録したのみである。
以上由来を報告します。正六位上新羅将軍神部直根マロ
但馬国朝来群粟鹿明神の由来の証文に官印を捺す。
長保四(1002)年 正月廿一日 正六位上行権少史斎部宿祢
平成7年、兵庫県立柏原高等学校から抜粋
责编:李亚林
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