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日语阅读:籠釣瓶14

来源:长理培训发布时间:2017-12-23 11:18:41

   十四

  三月になって絹糸のような雨が二、三日ふりつづいた。馬喰町の佐野屋の二階から見おろすと、隣りの狭い庭に一本の桃の花が真っ紅(か)に濡れて見えた。どこかで稽古三味線(けいこじゃみせん)の音が沈んできこえた。なま暖かいひと間の空気に倦(う)んで、次郎左衛門は障子を少しあけていたが、やがて又ぴっしゃりと閉め切って古びた手あぶりの前に坐って、小さい鉄瓶の口から軽く噴く湯煙りのゆくえを見つめていた。

  座敷の片隅には寝床が延べてあった。先月の末から十日あまりも吉原の三つ蒲団に睡らない彼は、明けても暮れても宿の二階に閉じ籠って、綿の硬いごつごつした衾(よぎ)にくるまって寝るよりほかに仕事はなかった。眼が醒めると酒を注文した。酔うと又すぐに寝てしまった。

  こんなことをして冬の蛇のように唯ぼんやりと生きているのは、彼に取って実に堪え難い苦痛であったが、今の彼はもう穴を出る力を失っていた。宿の亭主にあずけておいた五百両も、とうに喧嘩づらで引き出して、二月の中ごろまでには一文も残さずつかった。彼はいよいよ大尽の頭巾(ずきん)をぬいで、唯の旅びとの次郎左衛門になった。仲の町の茶屋にも幾らかの借りも出来た。たとい催促をされないまでも、面(つら)の皮を厚くして乗り込むわけには行かなくなった。初めから判り切っている事ではあるが、彼はその判り切っている路を歩んで、判り切っている最後の行き止まりに突き当った。金がいよいよ無くなったら何とか考えよう――彼はその最後の日まではなんにも考えまいと努めていたが、さていよいよ何とか考えなければならない時節になった。彼はやはりなんにも考えられなかった。

  歳(とし)は男盛りである。からだは丈夫である。いざとなれば天秤棒(てんびんぼう)を肩にあてても自分一人の糊口(くちすぎ)はできると多寡をくくっていたものの、何を楽しみにそんな事をして生きて行くのかということを、彼はこの頃になってしみじみと考えさせられた。もうそうなったら八橋には逢えない。おれは八橋と離れて生きてはいられないということが、今さら痛切に感じられて来た。

  博奕打ちをやめたのも八橋の意見に基づいたのである。身上(しんしょう)を潰したのも八橋が半分は手伝っている。命と吊り替えというほどの千両を残らず煙(けむ)にしたのも、みんな八橋のためである。この三年このかたの自分は、すべて八橋に操られた木偶(でく)のように動いていたのであった。人形遣いの手を離れて木偶の坊が一人で動ける筈がない。昔の次郎左衛門は知らず、今の次郎左衛門は八橋を離れて動くことのできない約束になっていることを、彼は自分で見極めてしまった。八橋がきっと自分の物になるという保証がつけば、彼は車力にでも土方にでも身を落すかも知れなかったが、そんな望みのないことは彼自身もよく承知していた。

  栄之丞の口から佐野の家の没落が発覚したときに、八橋はなんと感じたであろうか。彼は切(せつ)にそれを知りたかった。栄之丞が帰ったあとで、彼はいろいろにして訊こうとした。すると、八橋の返事は案外であった。

  「わたしに突き出されたのを遺恨に思って、栄之丞さんは嘘をつきなんした。それはわたしがよく知っておりいす」

  彼女はあくまでも栄之丞の話を嘘にして、佐野の家の没落を信じないというのであった。次郎左衛門はまた白状する機会を失って、それをいいしおに嘘だとも本当だとも、はっきり言い切らずに別れてしまった。

  「おれも昔は男を売ったものだが……」と、彼は過去のおのれと現在のおのれとを対照して、あまりに男らしくない卑怯な心持ちを自分であざけった。そうして、相変らず夢のように吉原へ通いつづけていた。

  それももう行き詰まった。茶屋はさておいて、宿屋の払いさえも出来なくなった。彼は髪結い銭にも煙草銭にも困って、宿の者の眼につかないように着替えの衣服(きもの)や帯などをそっと抱え出して、柳原の古着市へ忍んで行ったこともあった。それも長くはつづかないで、今の次郎左衛門が持っているものは、自分のからだ一つと村正(むらまさ)の刀一本になってしまった。村正の刀は十年前に或る浪人から百両で買ったもので、持ち主は家重代(いえじゅうだい)だと言った。水も溜まらぬ切れ味というので、籠釣瓶(かごつるべ)という銘が付いていた。次郎左衛門はこの籠釣瓶で、博奕場の喧嘩に六、七人傷つけたことがあった。彼は幾口(ふり)も持っている刀のうちでも、これを最も秘蔵の業物(わざもの)としていたので、去年故郷を退転する時にも余の刀はみんな手放してしまって、籠釣瓶だけを身につけて来たのであった。

  「もうこの上は、籠釣瓶を手放すよりほかはない」

  村正は徳川家に祟(たた)るという奇怪な伝説があるので、江戸の侍は村正を不祥(ふしょう)の刀として忌むことになっているが、他国の藩士はさのみ頓着しないから、いい相手を見付ければ相当の高値に売れる。刀屋へ捨て売りにしても四、五十両のものはある。ここで思い切って籠釣瓶を手放す事にすれば吉原へも行かれる、当分の小遣いにも困らない。自分のからだと籠釣瓶と、この二つしか残っていない彼は、どうしても籠釣瓶と別れを告げるよりほかに仕様はなかった。しかし彼は辛かった。籠釣瓶に別れるのは兄弟に別れるよりも辛(つら)かった。この長いものを横たえて野州に男を売った昔の花盛りを思い出すと、彼は悲しい秋が急に押し迫って来たように心さびしくなった。

  町人や百姓に刀は不用だというが、おれは佐野の次郎左衛門である。刀はおれの魂であると、彼は平生から考えていた。八橋の意見について一旦は土臭い百姓に復(かえ)ったものの、本来の野性は心の奥にいつまでも忍んでいた。彼はいかなる場合にも、この刀を身に着けているつもりであった。

  今の次郎左衛門からどうしても引き放すことの出来ないものは、この籠釣瓶と八橋とであった。八橋は自分の命であった。籠釣瓶は自分の魂であった。どっちを離れても、自分というものはこの世に存在しないように思われた。どんなに落ちぶれても、どんなに行き詰まっても、彼はこの二つを手放したくなかった。たとい籠釣瓶を手放したところで、その金で一生を安楽に送られるという訳でもない。思い切ってこれを手放したところで、多寡が百両に足りない金を握るだけのことで、その金の尽きた時には八橋にも別れを告げなければならない。こう思うと、籠釣瓶をむざむざ[#「むざむざ」に傍点]手放すのがいよいよ惜しくってならなかった。

  雨は小やみなしにしとしと[#「しとしと」に傍点]と降っていた。そろそろ花見どきに近づいて、どこの宿屋も江戸見物の客で込み合う頃であるのに、ことしは田舎の人の出が遅いとかいうので、広い佐野屋の二階も森閑(しんかん)としていた。四、五人の泊まり客は雨がふるのに何処へか出て行ってしまって、どの座敷にも灰吹きを叩く音もきこえなかった。なんだか鬱陶(うっとう)しいので、次郎左衛門はまた起って障子をあけると、どこかで籠の鶯(うぐいす)の声がしめって聞えた。このごろ聞きなれた豆腐屋の声が表で睡そうにきこえるのも、やがてもう午(ひる)に近いのを思わせた。

  次郎左衛門は戸棚から籠釣瓶を取り出して、なんということもなしにするりと引き抜いて障子のあいだから流れ込む真昼のうすい光りに照らして見た。彼は水のように美しく澄んでいる焼刃(やいば)を惚れぼれと眺めているうちに、今までにこの刀を幾たび抜いたかということを考えた。これで喧嘩相手の小鬢(こびん)や腕を切った時のこころよい感じが、彼の両腕の肉をむずがゆいように顫わせた。

  「もう一度人を切って見たい」

  彼はふとそんなことを考えた。村正は不祥の刀であるということもまた思い出された。自分と八橋と籠釣瓶と、この三つはどうしても引き放すことの出来ない約束になっているらしくも思われた。八橋とも別れたくない、籠釣瓶とも別れたくない。それを煎じ詰めて考えていると、彼はとうとう最後の結論に到着した。

  「籠釣瓶で八橋を殺して、自分も籠釣瓶を抱いて死ぬ。これよりほかに途はない」

  重荷を卸(おろ)したようにほっ[#「ほっ」に傍点]として、彼はもう一度その刀をつくづく眺めた。やがて刀を鞘(さや)に納めて、女中を呼んで硯と巻紙とを取り寄せた。彼は姉と親類とに宛てた手紙を書き始めた。書いてしまった頃に、ちょうど午飯の膳を運んで来たので、彼はいつもの通りに酒を注文した。酔うと寝床へもぐり込んで、昼から夜までぐっすりと寝てしまった。

  あくる日も雨が降っていた。

  「毎日降って困りますね」

  佐野屋の入り口へ治六が寂しそうな顔を出した。

  「治六さん。しばらく見えなさらなかったね。どうかしなすったか」と、帳場にいる亭主が宿帳をつけている筆をおいて訊いた。

  「はい。少し風邪(かぜ)を引きまして、つい御無沙汰をいたしました」

  三日目に一度ぐらいずつは必ずそっと訪ねて来て、主人の安否を蔭ながら訊いてゆく治六が小(こ)半月ばかりも顔を見せないので、亭主も内々心配しているところであった。なるほど病気で寝てでもいたらしく、ふだんから髪月代(かみさかやき)などに余り頓着しない男が一層じじむさくなって、少し痩せた頬のあたりにそそけた鬢の毛がこぐらかってぶら下がっていた。

  「旦那さまはこの頃どうでごぜえます」と、彼は帳場の前ににじり寄って来てすぐに訊いた。

  「相変らずさ」と、亭主はにがい顔をした。「だが、もう大抵遣い切ってしまったらしい。吉原へもだいぶ遠退いたし、この頃では髪結い銭もないらしい」

  次郎左衛門は二月の勘定もまだ払わない。長年の馴染みであるから、勿論あらためて催促もしないが、今まで晦日(みそか)には几帳面(きちょうめん)に払っていた人が僅かばかりの宿賃をとどこおらせているようでは、その懐ろ都合も思いやられる。例の千両もとうとうみんなおはぐろ溝(どぶ)へ投げ込んでしまったらしいと、亭主は気の毒そうに言った。

  治六はじっと俯向いて聴いていたが、やがて肌に着けていた鬱金(うこん)木綿の胴巻から三両の金を振り出して亭主の前にならべた。

  「旦那さまの二月分の勘定というのは幾らになるか知りませんが、まあこれで取って置いて下せえまし」

  「冗談言っちゃあいけない」と、亭主は叱るように押し戻した。「お前さんに立て替えさせようと思って壁訴訟(かべそしょう)をした訳じゃあない。長年の定宿だ。まかり間違ったところで私の方の損とあきらめれば済む。今のお前さんには大事の金だ。むやみに遣わせちゃあならない」

  「これもみんな旦那さまから貰った金で、つまり旦那さまの物を預かっているも同様でごぜえます。こういう時の用にと思って、去年お暇の出るときに貰った十両はちゃんと手をつけずにあります。どうぞ受取って置いて下せえまし」と、治六の方でも押し返した。

  亭主の眼からは涙がこぼれた。お前さんの志はよく判っているが、どうもこの金をお前さんから受取るわけには行かない。旦那がああいう始末になっては、お前さんももう帰参の見込みもあるまい。その十両を元手にして何か自分の身を立てる工夫を付けた方がよかろうと、亭主は親切に意見すると、治六はときどきに眼を拭きながらおとなしく聴いていた。そうして、久し振りで旦那さまに逢って来たいと言った。

  「どうでいい顔もしなさるまいが、逢いたければちょいと顔を出して来なさるがいい」と、亭主は言った。

  治六はそっと二階へあがって行くと、もうやがて八つ(午後二時)というのに次郎左衛門は衾(よぎ)をすっぽりと引っかぶっていた。障子の外から声をかけて、治六は這うように座敷へいざってはいると、次郎左衛門は薄く眼をあいていた。

  「治六か。どうしている」

  久し振りで主人から優しい声をかけられて、治六は急に悲しくなった。彼は胸がいっぱいになったようで、腰から手拭を取って顔に当てたまま俯向いていた。

  「何を泣く。馬鹿野郎」と、次郎左衛門はあざけるように叱りながら起き直った。「だが、貴様が来たので丁度いい。少し頼みたいことがある。国まで使いに行って来てくれ」

  ここの亭主からもう聞いたかも知れないが、おれも財布の底をはたき尽くして、宿の払いにも困るような始末になってしまった。もう、うかうかしてはいられない。今度という今度は本気になってなんとか身の振り方を付けなければならない。それには幾らかまとまった金が欲しい。これから故郷の佐野へ行って、姉や親類にもその訳を話して、金の都合をして来てくれ。なんといっても親(しん)は泣き寄りで、まさかに情(すげ)なくも追い返すまい。実は飛脚を頼むつもりできのうから手紙を書いておいたから、これを持って行けば判るといって、彼は蒲団の下から一通の手紙を探り出して治六に渡した。

  正直な治六はなんにも疑わなかった。主人としては今の場合こうするよりほかに、知恵も工夫もあるまいと素直に考えた。しかしこれは余ほど難儀な使いで、今さら故郷へのめのめ[#「のめのめ」に傍点]と引っ返して、おまけに無心がましいことを言い出して、親類たちに忌(いや)な顔を見せられるのは治六もなにぶん辛かったが、その辛い目を辛抱しなければ主人の身が立たない。殊に財布が空(から)になった故でもあろうが、宿の亭主の話によれば、この頃は廓へ足踏みもしないという。あるいは主人もいよいよ本気になって、これからまじめに稼ぎ出そうという料簡になったのかも知れない。自分にやさしい声をかけてくれたのも、くるわの酒の醒めたしるしかも知れない。こう思うと、彼の心にもおのずからなる勇みも出て、辛い役目をひき受けて働く甲斐があるようにも思われた。

  「よろしゅうごぜえます。すぐにめえります」

  治六はこころよく承知したので、主人も久し振りで笑顔を見せた。忌(いや)でもあろうが我慢して行ってくれと重ねて言った。治六はあしたの朝すぐに発つと約束して、主人の手紙を懐ろへしっかりしまったが、帰る時に彼は胴巻から十両の金を出して、自分はそのうちから佐野まで往き復りの路用(ろよう)として一両だけを取って、残りの金を主人に戻した。次郎左衛門は要らないといったが、治六は無理に押しつけて帰った。

  「あいつもやっぱり可愛い奴だ」

  馬鹿と叱った主人の口から、こんな情けぶかい独り言も洩れた。

责编:李亚林

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