言葉は、光や空気、水などのように、わたしたちの生活には、欠くことの出家ないものである。しかし、多くの人は、光や空気、水などのことをあまり考えないように、言葉のことも、ほとんど気にかけない。言葉によって、わたしたちは自分の考えを人に知らせたり、人の考えを知ったりする。近頃の言葉で言えば、コミュニケーションの役割をするものである。
「目は口ほどにものを言い1」、私たちは、表情とか、手まねや身振りでも、意思や感情を表すことができるし、約束によって、色や音、形なども、言葉の変わりに使うこともあるが、言葉のように、 正確に、細かくは伝達できない。
言葉は普通、口で音声によって話して人に伝えられるが、それを文字に書いてすることもある。それで「話言葉」と「書き言葉」に区別することがあるが、私たちはなんと言っても、話し言葉を使うことが多い。
普通の人の生活では、聞く戸とが四十五%、話すことが三十%、読むことが十六%、書くことが九%の割合になっているということである。かつて、国立国語研究所が福島県の白河市で、農民と文房具商と床屋の三人に、つきっきりで克明に調べたものによると2、一日二十四時間のうち、これらの人がおきているのは平均十七時間で、そのうち、読んだり書いたりする時間は、わずか十分足らずであったと言う。だとすると3、私たちは、読み書きには相当力を入れて学習するけれども、話し聞く言は、発声器官かに故障でもない限り、誰にでもできるように考えて、特に勉強をせず、練習もしない現状を反省しなければならない。
いったい日本では、「口はわざわいの門4」とか、「わざわいは口より出て、病は口よりはいる」とか、「したは災いの種」「キジも鳴かずば撃たれまい⑤」「口を利かぬは最上の分別6」などといわれてきた。はいせい芭蕉7も「ものいへば唇寒し秋の風8」と詠んだ。それで、ともすると9、話すことはよくないことでもあるようにおもわれがちであった10.(もっとも「雄弁は銀、沈黙は金」と言うことわざがある。)そして、自分の考えを述べる言を「口を出す」とか、「口が軽い11」とかいって、いましめられた。これは仏教や儒教の影響とか、封建制度の産物ともいえるが、「物言わぬは腹ふくるる12」であるはずだ。
お互いに話し合い,わかりあって行くことがたいせつである。いらぬ口を利いたり、へらず口をたたいたりすることは慎まなければならない13が、わたしたちは、もっと気軽に、気楽に物を言う14ことによって、世の中をもっと住みよく、楽しいものにすることができるはずである。いや、そうしなくてはいけない。議会政治なども、そういう前提のものであると思う。
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