妖艶な美女妹喜を溺愛し、酒池肉林?の淫楽をほしいままにした夏の桀王は、殷の紂王とともに、古来、非道亡国の帝王として、桀紂と並び称されている。この夏の桀王の虐政に叛抗して、兵を挙げ、桀王の大軍を鳴条山に破り、桀王に代って位についたのが、殷の湯王である。
湯王は、挙兵にあたり、領地亳の群衆をまえにして、出陣の誓約を切々と、つぎのように宣布した。
「来たれ、なんじもろもろよ、ことごとくわが言を聞け、われは敢えて乱をあぐるにあらず、夏の罪多くして、天命これを討たしむるなり。」
この湯王の誓詞は、いま「書経」の「湯誓篇」としてのこされているが、さらに、桀王と戦って大勝し、亳に凱旋したとき、湯王は、ふたたび諸侯にたいし、桀王の無道を攻撃して、
「夏王、徳を滅し、暴威を逞しくし、なんじら万邦に百姓にたいし虐政を加えたり。
なんじら万邦の百姓、その凶害を蒙りて、荼毒の苦しみに堪ええず、無辜の苦しみを上下の神祗に告ぐ。
天道はつねに善に福いし、淫に禍いす。
天は災いを夏に降し、もってその罪を彰らかにせり。」
と言葉はげしく桀の罪をならし、天命が夏を去り、殷に下ったことの正当性を証明しようとした。桀王の悪虐を非難した言葉は、このほか、古典に数多くみられるが、同じ「書経」の「仲キ之誥?(仲キは湯王の臣下で、仲キが湯王に告げ、また広く民衆に告げた言葉だという?)では、
「有夏昏徳し、民塗炭に墜つ」
といった。
桀王の不徳?悪虐の行為によって民のうけた異常な苦難を、ここでは一言で、「民塗炭に墜つ」といったのである。これが、今は「塗炭の苦しみ」という言葉の語源とされているものである。
民が塗炭の苦しみにあえいだのは、たんに桀王の時ばかりではない。
殷の紂王や、古来の多くの帝王の時代にもそうであった。極言すれば、有史以来、数千年の歴史は、絶えず民衆の塗炭の苦しみの繰り返しであったとさえいえよう。されば、「書経」に最初にみられる「塗炭」の言葉は、その後、中国の史書だけでなく日本の文献にも、頻繁に使われてきた。たとえば、「太平記」の資朝?俊基、関東下向のくだりは、
「時澆季に及んで道塗炭に落ちぬといへども」
と、混乱した末世の苦悩をえがいている。
塗炭の塗とは泥水のこと、炭とは炭火のこと、塗炭の苦しみとは、あたかも泥水や炭火のなかにおとしいれられたような水火の苦しみという意味である。また、塗炭の苦しみを塗地の苦しみともいう。塗炭苦しみから解放されたいという人々の願いが、多くの文献に塗炭の文字をのこしているといえるのではないか。
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