陳勝、字は渉.河南省陽武県(今の登封県)の日雇百姓であった。ある日、仲間たちとともに田を耕しているとき、陳勝はふと、鍬を投げすてて丘にかけ上がり、しばらく悵然として天を仰いでいた。彼の胸は、秦の圧政に対する憤りと、自分たちのみじめな境遇に対する恨みとにふさがれていた。しかしその裏では、彼の胸はまた、将来への野望に燃え立っていたのである。やがて彼は、仲間の者たちをふりかえって口走った。
「将来おれが出世をしても、お互いに忘れないようにしようぜ。」
「なにをねぼけているんだ」と仲間の百姓たちは笑った、「お互いに日雇百姓じゃないか、出世なんてねごとはよせ。」
陳勝には仲間のその言葉がかなしかった。おれの気持ちは彼らには通じないのだ、と思うと、彼はため息をついて言った。
「ああ、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
(燕や雀のような小鳥には、大鳥の大志はわからない!)
その陳勝は、秦の二世皇帝の元年(B.C.209)七月、河南の各県から徴用されてきた九百名の貧農たちとともに、長城警備のために漁陽(河北省密雲県)へ送られてゆく途中、安徽省の「き県」(今の宿県)の大沢郷というところで、おりからの長雨にとじこめられていた。このあたりは淮河の支流が網の目のように走っている湿地帯で、雨が降るとたちまち道が通じなくなった。徴用兵たちの漁陽に到着すべき期日は迫っていた。秦の軍法はきびしく、もし遅れたならば彼らは斬罪に処せられるのだった。だが、大沢郷から漁陽までは三千里、今すぐ強行軍をしても期日までに着くことはすでに不可能であった。しかも徴兵官たちは終日ゆうゆうと酒を飲んでいる。彼らには罪を逃れる便法もあるのだった。
このとき陳勝は、同じく徴用兵の呉広とともに秦に反旗をひるがえすことを謀った。呉広、字は叔、陽夏県(河南省太康県)の貧農で、兵士たちのあいだに人望があった。
陳勝と呉広とは、ひそかに兵士たちの不満をつのらせ、反抗心をあおり、また、彼らの迷信を利用して、魚の腹の中に「陳勝、王たらん」と朱書きした布切れを入れたり、陣営の傍の祠にかくれて狐の声をまねて「大楚(楚は秦にほろぼされた彼らの祖国)興らん、陳勝、王たらん」
と鳴いたりして農民たちの心を陳勝に引きつけながら、九百人の一隊がともに立ち上がるべき機会を待った。
やがてその時は来た。呉広は事をかまえて徴兵官を怒らせ、彼が剣を抜いたと見るや奪い取って逆に徴兵官を斬り殺した。その時陳勝は兵士たちを静めて号令した。
「おれたちの生きる道は一つしかない。
それは、おれたちを苦しめ通してきた秦と戦うことだ。
おれたちの国をおれたちの力で興そう。
おれたち百姓だけが虫けらのように辱められていることはないのだ!」
そして陳勝は声高く叫んだ。
「王侯将相寧ぞ種有らんや」
(誰も皆同じ人間ではないか!王侯にも将相にも皆なれるのだ!)
九百人の農民兵たちは、どっと喚声を上げて陳勝に応えた。こうして大沢郷に蜂起した農民軍は、たちまち「き県」をおとしいれ、一軍は東進して東城(安徽省定遠県の東南)に向かい、陳勝?呉広の主力軍は西進して陳(河南省淮陽)に向かった。長らく秦の圧政に苦しめられてきた各地の農民たちは、みずから武装して陳勝の軍に加わり、陳に入城するころにはその兵力は数万に達した。陳勝は陳で王と称し、国号を張楚(楚を大にするという意)と名づけて秦に対抗した。つまり、陳勝を首班とする革命政権が樹立されたのである。これは中国ではもちろん、世界史上最初の、そして大規模な農民蜂起であった。
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